NEW YORK GROOVE
by TERUO NAKAMURA

5月24日[水]〜29日[月]最終日午後6時終了
伊勢丹新宿店本館6階=催物場

PHOTO_TERUO NAKAMURA
CONCEPT_KOUICHI KANEKO

TERUO NAKAMURA
SPECIAL LIVE

出演:
中村照夫(エレクトリック&アコースティックベース)
鎌倉規匠(ドラムス)
吉田桂一(フェンダーローズピアノ)
中澤剛(DJ)

5月26日[金]16時・18時
5月27日[土]15時・17時
伊勢丹新宿店本館6階=催物場

※イベントの内容は予告なしに変更または中止となる場合がございます。予めご了承ください。

そこにはいつもビートが息づき、スピリチュアルなメロディが流れ、予測できないスリルに溢れている。こんな紹介さえも陳腐に聞こえてしまう、それが中村照夫という男である。1964年から単身渡米。50年にわたりニューヨークに住み、ジャズファンでなくとも名前を聞けば驚くようなミュージシャンたちとセッションを重ねてきた名ベーシストであり、およそ40枚のジャズのレコードを制作してきたプロデューサーである。加えて、中村氏は変わりゆくニューヨークの街を中心に、生活に密着した視点で捉えた、膨大な数の写真作品を残してきたフォトグラファーとしての顔も持つ。

そこでイセタンでは、今回の来日を機会にニューヨークウイークの一環として「NEW YORK GROOVE」と題する写真展を開催することとなった。そして、50年以上現地で生き抜いてきたニューヨーカーの生の声をお届けするべくインタビューをお受けいただくという幸運に恵まれた。初夏の陽射しに心地よい風が吹く昼下がり、中村氏は現れた。ジャズファンはもちろんだが、現在ではレアグルーヴのDJ世代からも高い支持を受け、リビング・レジェンド!サムライ・ジャズマン!など、絶賛の言葉は尽きない。しかし、そんな高まる評価を意に介するでもなく、中村氏は和やかな表情でゆっくりとニューヨークについて語り始めた。

最初に住みついたのはハーレム
とにかくジャズクラブに通った日々

ニューヨークに住みつくまで、旅をしたんですよ、ジャズが通った道を、ミーハー的にね。ロスやサンフランシスコ…。グレイハウンド(バス)でシカゴ経由でニューオリンズまで行って、ジャズやブルースのルートだね。3日に1回シャワーを浴びるためにYMCAにに泊まって。食事はいつも食パンにピーナッツバター。貧しいけど、楽しい旅。でも南から北へ向かって上がっていくと物価も上がっていくんだよ(笑)。その頃5セントだったコーヒーが10セントになって、ニューヨークに着いたら15セントになっていたんだ。まずニューヨークで1カ月ほどYMCAに泊まった。その後グリニッジヴィレッジにしばらく滞在して、最初に住みついたのはハーレム。

友人のアパートに居候だ。あの頃、アメリカは政治的にも大変な時代だったし、ブラックムーブメントも全盛。おかしいよね、そんな時代、そんな場所に日本人が住みつくなんて(笑)。一日中ずっとハーレムを歩いてもまったく日本人は見なかったな。当時いろんな人と知り合い、大学を出て弁護士になろうとしていた人の伝手でなだれ込んで居候してたんだ。ハーレムの端っこの116丁目(アムステルアヴェニュー)かな。そこの近所にはちょっと歩けばいろんなジャズクラブがたくさんあってよく通った。誰 に話したって、みんなうらやましがるね。それからハーレムに4、5年居て、クイーンズに移って転々として、その後、トライベッカ、そして、マジソンスクエアガーデン近くの30丁目に引っ越した。ニューヨークに住み始めた頃はまだベーシストじゃなかったんだ。日本にいる頃からジャズは好きだったし、ジャズならニューヨークだった。

本物のジャズを身近で聴いていたら自分でも本格的に演奏したくなったんだ。ある日、ヴィレッジ・ヴァンガードでマイルス・デイヴィスのセクステットを観た。その夜のベースは面識のあったレジー・ワークマン (※1)。ライブは最高だった。気付くとレジーにベースを教えてほしいと言っていた。もう無計画なんだよ。翌週、クイーンズに住むレジーの家を訪ねた。ベースは彼に教えてもらったんだよ。テクニックよりもジャズミュージシャンとしての物事の考え方や生活の仕方など、アティテュード(姿勢)だね。ニューヨークでジャズ・ミュージシャンとして生きていくことを教えてくれたんだ。とても貴重な時間だったね。でもベースだったら簡単に弾けると最初思った(笑)。でもそんなことないんだよね。実はいちばん難しいんだ。

前にスタンリー (※2)のバンドにいたとき、あんな演奏には二度と出会えないというくらいの体験をしたんだ。言葉にならないよ。なぜスタンリーはあんな演奏ができたんだろうって、今でも不思議に思う。渦を巻くんだよ、音が。吸い込まれるような、持っていかれるような感じ。私もたくさんライブやってきたけど、一緒に演奏していてそんな体験をさせてくれたミュージシャンは5人もいないかな。スタンリー、ジョージ・ベンソン (※3)、スティーブ・グロスマン (※4)…。オーディエンスとしてそんな感覚になったライブを3、4回は観てる。特にすごかったのは70年~80年代のマイルス (※5)。カーネギーホールのライブなんてすごかった。渦巻いてた。歓声が吸い込まれていくような感じ。あれがあるからライブに行きたくなるんだよね。

※1 レジー・ワークマン:1961年、ジョン・コルトレーンのカルテットに参加。以降も数々のレジェンドの録音に参加した名ベーシスト。
※2 スタンリー・タレンタイン:“ミスターT”として知られる、アメリカを代表するテナーサックス奏者。
※3 ジョージ・ベンソン:アメリカを代表する、歌えるジャズ・フュージョンギタリスト。
※4 スティーブ・グロスマン:マイルス・デイヴィスのバンドにも在籍した名サックス奏者。
※5 マイルス・デイヴィス:ジャズの帝王。時代に応じて、様々な音楽性を見せ、ジャズ界を牽引したトランペット奏者。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Tribeca Yellow cab "Indian Summer"」

私が住んでいた頃は自由でポジティブな感じの場所だったトライベッカ。
ロフトの天井は高く、創作活動やリハーサルが出来て、アーティストには住みやすい場所だった。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Under The Brooklyn Bridge」

有名なカフェ「ザ・リバー・カフェ」が住まいの近所にあった。
その近くのクラブでよくヒルトン・ルイスらと演奏した。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Red Shoe」

「片っぽの靴」。この猫はジャズが好きだった。近づく人すべてを引っ掻いた。
フラッシュが嫌いだったのか、なかなか写真を撮らせてくれなかったが、
私は人懐こくないところも好きだった。

黒人にはなれないけれど、
ブルースの想いを理解することはできる

ニューヨークで最初にやったのは、輸入されたテープレコーダー製品の山から正規品と粗悪品を選別する仕事。あとは96丁目、ブロードウェイにあったとんかつレストランで弁当配達をやったり。日系企業に届ける新聞配達やったり。ここでは語れないけど、いろいろなことがあったなあ。ヒッピーの時代だよ(笑)。日系人の商社から頼まれて書類を日本へ送る仕事もやった。15時から19時頃までにまわって書類をピックアップして送った後、そのままスティーブ・グロスマンとか一緒にクラブへ演奏しに行ったな。

ジャズって日本ではお茶の間に出てくる。床屋やそば屋に行っても流れてる。あくまでBGMとしてだけど ね。でもニューヨークでは違う。おしゃれなカフェに行ったらかかっていたり、友だちの家を訪ねたとき、友だちのお母さんがジャズが好きなのとコレクションを見せてくれたりすることもあるけど、ジャズってちょっと違うんだよね。やっぱりマイノリティのものだから。日本におけるジャズの扱い方が良くないと言ってるわけじゃなく、ちょっと表層的かもとは思う。だって、マイルスがお茶の間に出てきたりはしないよ、ニューヨークじゃ。でも文化の違い、意識の相違ってどこにでもあるものだということもわかってる。物事を本質的に理解するって難しい。本を読んだり、人と接したりすればわかるかもしれないと感じるときもあるけどね…。

98年にニューヨークからバンドを率いて大阪で演奏したとき、「日本人のおまえにブルースがわかるわけないだろ」ってスタンリーに言われた。そのとき、私は言ったんだ。「確かに私はあなたたち黒人のような辛い歴史を背負って生活してきたわけじゃない。でも私はその痛みを感じることはできる。もちろん黒人そのもののメンタリティになることはできない。でも “What's Going on(何が起きてるんだ?)” を頭で理解するだけじゃなく、ハートで理解しようと努力することはできるんだって」。そう言ったらスタンリーは黙ったよ。彼には私の気持ちがわかったと思うよ。彼は『Pieces Of Dreams』っていうヒット曲を持っていたからたくさんお客が入った。

時間は遡るけど、私がスタンリーのバンドにいたとき、そう、あれはジョージ・ベンソンが前座やってた頃だね。演奏してたら、ひと晩に5人くらい毎回ベーシストがクラブへ来るんだよ、仕事取りに。私を見て「なんでジャパニーズがベースやってるんだ?!」って。そしたら、スタンリーが「おまえが Teruo みたいに弾けるんなら、すぐ雇ってやるよ」って。それで終わり(笑)。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Bass Drummer in Harlem」

夏が過ぎた頃、行われていたハーレムパレードを見に行った。
場所は116~130丁目のアップタウン。大勢の人が通りに溢れていた。
私は黒人の青年の厳しい瞳が気になった。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Easter Parade」

イースター・パレードはニューヨークの春の風物詩。
お洒落な格好をしたハッピーな人ばかりで、撮影すると皆喜ぶ。
そんな人たちの表情が好きだから、機会がある度に撮影に出かける。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Antique Boy」

チェルシーのアンティーク街で見かけた男の子。
私は古雑誌の表紙にも目が止まった。

ジャズに対する尊敬があって
懸命に演奏していたら、誰もがおまえを助けるさ

ロイ・ヘインズ(※)のバンドにいたときの話。当時、ジョン・コルトレーンやファラオ・サンダースらが出ていたブラックカルチャークラブという店があって、ロイのベースとして行ったんだ。そうしたらドアマンに「ブラザー以外は入れられない」って私と白人のピアニストのカール・シュローダーが入口で止められた。それで大口論になって。そこでロイが「おまえら、そんな低次元なことを言ってるから、俺たちの音楽は世界に認められないんだ!」って言って、演奏もせずにみんなで帰ってしまったこともあったよ。あれは友情というより、音楽へのリスペクトだね。人種じゃないんだ。

マイケル・カールヴィンというドラマーらと話してたとき「ジャズとは何か?」って話をしていたとき。“ジャズは黒人が創ってきたもの”という考えが強いかも知れないけれど、中国に多くの種族や言葉があるように、黒人の祖先といわれるアフリカにも多彩な文化や種族があって、ニューヨークに生活する黒人というだけで“同朋”とは言えない。それは人種が同じだからとまとめて捉えるべきじゃないということ。だから「Teruo、おまえがそこにいて、おまえがジャズに対する尊敬があって、一生懸命演奏していたら、誰もがおまえのことを同朋と思って助けるさ」って。こんなことはどのジャズ評論家も語らないよね。

若い頃、私は生意気だったと思う。髪も長かったし、ブルース・リーの映画が流行ってたから、体格の良いアジア人でこんな突っ張ってるやつに誰も近づいてこないよ。ケンカしても負けたことがなかった。いつも生きることに対して真剣だった。音楽のために殺されてもやりたいことをやろうと決めて生きていた。無計画かも知れないけど、説明にならないかも知れないけど、本質的なものを見ようと生きていたんだね。だから、逆に危ない目に遭ったことはあまり無い。ある日、ベースを運ぶためにステーションワゴンに乗っていて、信号が変わっても前の車が動かないんだ。だから、頭に来て自分の車を前の車のバンパーにくっつけて押してやった。そしたら、おじさんが降りてきて「何してるんだ!」て言うから「早く動けよ!」って言ったら、ピストル出して「俺はポリスだ!」って。しっぽ巻いて逃げたけど、それぐらいのものだよ(笑)。

※ロイ・ヘインズ:古くはチャーリー・パーカーのグループで活躍。マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、セロニアス・モンクなどの多くのレコーディングに参加したリビング・レジェンドであり、名ドラム奏者。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「On The Bridge」

ブルックリンからマンハッタンに向かう途中。
このブルックリンブリッジをはじめ、 ニューヨークには魅せられる橋がたくさんあった。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Fisherman at Liberty Park」

ニュージャージーからマンハッタンを一望。
エンパイアステートビル、ワールドトレードセンター、自由の女神が見える。
ここでは大きな魚も釣れた。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Foggy Day」

リバティパークから見るワールドトレードセンター。
この日は風もなく、霧が晴れない一日だった。

上手く撮ろうなんて思っていない
写真はシンプリシティに向かっていく

写真はね、機械が好きだったから入り込んだのかも知れない。誰かのレコーディングやっていて、アーティスト写真が必要だってなって、それでカメラを買って撮りだした。それがきっかけだね。だから毎日カメラを持ち歩いていた。街を歩いてると何に出くわすか、わからないじゃない?あれね「ゾーン」みたいなものがあるんだろうね。写真はゾーンに入るといくらでも撮れるんだよね。でも、だめなときはいくら待っても歩いても何も撮れない。急に来るんだよね。マイケル・ジョーダンのゾーンの話じゃないけど、写真もそうだと思うよ。でも、写真家って自分の作品で自慢できるような写真なんてそんなにたくさんあるものじゃないと思う。ゾーンに入るきっかけってそんなにあるものじゃないのと同じように。

思い付いたことが見事にすべて一致したときはいろんなことができてしまう。音楽も同じだけどね。出くわしたフレーズ、瞬間、これは写真も同じ。でも音楽は止めることができない。写真は止められる。時間を輪切りにできるんですよ。それを共有できる。写真は好きだなあ。良い被写体が目の前にあると、シャッターを切るとき、手が震えるね、心が震えるんだ。それは街の風景でも、人の表情でも。例えば、この写真(『Dave’s Corner and Police Car 』)は雨が降ってきて、夜中12時を過ぎてたな。これもゾーンだよ。上手く撮ろうなんて思っていないもの。究極的なことを考えると写真はシンプリシティなものに向 かっていくんじゃないかな。音楽もそう。とんでもなく幾何学的で複雑な音楽をやったって誰も聴かないよ。最終的にはブルースとか、根源的なものに戻っていく。絵だってそうだと思う。

被写体としてのニューヨーク?難しいなあ。やっぱりその場所に興味を持って、そこにいなければ撮れないよね。面白いことだと思うんだけど、こういう写真って後になっていろんなことが明らかになってくるんだよ。当時にわかって撮っているわけじゃないんだ。それはもう動物的なカンって言えるくらい。つまり、100年も経ってみなさい。この場所を切り取ったこんな写真、誰ひとり持ってないよ。あの時代はニクソンの頃でニューヨークが揺れていた。いつの時代とも比較の対象にならないことが起こっていたんだよ。それをそこに住んでじかに感じていた。時間が経ったら、あれ?この写真ってすごいなあ、なんてことになっている。さっきの写真はブロードウェイとキャナル・ストリートの角にあった人気のダイナーで当時はよくこの店に行っていたんだ。ここはホットドッグとチョコレートとミルクを入れたエッグクリームなんかを売っていた。かっこいい店でしょ。トライベッカという街が有名になり始めた頃。だんだんと富裕層が越してきて、家賃が上がり始めてアーティストたちが住みにくくなってそこを出て行き始めて…。そんな頃だね。私にとって、写真は記録でも、記憶でもないし、アートでもないかも。言葉で説明する必要のないものかも知れないですね。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Dave's Corner and Police Car」

ブロードウェイとキャナル・ストリートの角にあった 人気ダイナー。
70年頃のトライベッカは住人が少なかったが、 アーティストが移り住み、評判になり、家賃も上がっていった。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Moondance Cafe」

日常にあった、日常的ではない風景。2007年、家賃が上がり 閉店を余儀なくされた。
その後店は売りに出され、買い手は ワイオミングまで運送、移築されたが、また売りに出されたという。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Brooklyn neighborhood」

ブルックリンブリッジを渡った場所。何ともいえない 特徴的なビルのかたち。
実にブルックリンらしい建物だ。

社会とコミュニケーションするなら音楽がいい
これは偉大なミュージシャンもやってきたこと

すごくシンプルな話なんだけど。音楽が聴きたくてアメリカに船でやって来て。そして、音楽を聴いたり、観たりしているうちに演奏したくなった。だからベースを、教えてもらって弾けるようになって、人前で演奏するようになった。そのうちに、ああこんな素晴らしい音楽があるんだったら録音してみたいなと思って、スタジオに入って録音したら、人に聴かせたくなって、今度はそれをレコードとして出した。いろんなレコード会社から出しました。そうこうするうちにこんな良い音楽があるから、チャリティを絡めて多くの人に聴いてもらえたら素晴らしいことだと思ったんです。で、実際にそれを実行に移したというだけの話で。

1991年、92年の独立記念日にニュー・ジャージーのリバティー・パークでチャリティのジャズ・コンサートをプロデュースしました。ホームレスの子どもたちのために避難所を建てるお金を集めるためのコンサート。音楽で有意義なコミュニケーションをするには、社会の問題に音楽で取り組むことが一番かなと。それはビリー・ホリディやアート・ブレイキー、チャーリー・パーカーやルイ・アームストロング、ジョン・コルトレーンもやり方は違ってもみんなやっていたこと。当時、朝日新聞の記者で、後に朝日新聞アメリカの社長になる田村正人さんに相談し、教育関係の本を出版している会社がスポンサードしてくれたんです。コンサートはロバータ・フラックがメインゲストになり、10万人もの人々が集まってくれた。基金集めは成功して、税金倒れでジャージー・シティが持っていた建物をホームレスの幼児がナースと一緒に住めるシェルターに改築できたんです。

また、エイズへの社会的関心を上げるためのプロジェクト「JAWS」(※)の活動資金を得るためのコンサートを日本で開催しました。その後も長年さまざまな企業がサポートしてもらい、公演は続きました。資金集めでいろいろ苦労はあったけど、当時、社会とのコミュニケーションに高いモチベーションがあったから、金儲けに対する考えはあまりなかった。いろんな人に助けられてやってこられたから、やっぱり自分は金のためだけに演奏するわけじゃないって強く思ってましたね。

もうひとつ、社会とのコミュニケーションという意味でいうと、ラジオ番組を制作したこと。90年に日 本のFM局では初めてとなるFM横浜ニューヨーク支局が開局。「Hip pocket」という、ニューヨークで制作し、日本でオン・エアしていた深夜の番組です。アメリカ人スターDJを起用した英語での放送。ジャズやロック、R&B など、ジャンルにこだわらずカッコイイものだけをかけるという最高の番組でしたね。なぜこんな番組を作った かというと、当時、日本のラジオには聴くべき音楽番組がないと感じたから。だって、日本ではお店でもホテルでもどこでも音楽は流れているけれど、BGMに過ぎない扱いになっていて、誰も聴いていないし、気にもしていない。音楽家たちが心と技を尽くして作った、聴かれるべき音楽がこの世にはたくさんある。でも、それが街で流れたとしても誰の耳にも心にも届かない。そんな状況をなんとかしたかったから「Hip pocket」を作った。これは私なりの音楽へのリスペクトだったんです。この番組は当時、多くのリスナーに強いインパクトを与え、日本でのFM戦争の口火を切ったともいえるでしょう。

※「JAWS」:Japanese AIDS Work Shop Series:ニューヨーク在住の日本人が日本語でエイズに関する情報・意見交換の場を確保する目的で1993年に発足。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Two dogs on Island」

場所はヴィレッジヴァンガード近くのセブンス・アヴェニュー・サウス。70年代終わり。
クルマ、人の服装に時代を感じる。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Lower East」

昔の面影を残すローワーイースト。
当時、このあたりにはエスニック料理屋がたくさんあった。

人間同士の本質的な理解とは
あなたと私の違いを認めることから始まる

自分にとってニューヨークってどんな場所かって問われても難しいよね。だって、あまりに深く入り込んでいたから客観的に見られない。本当に好きなのか?って聞かれたら疑問だし。音楽を聴きたいと思ったらニューヨーク以外思いつかなかったんだよ。自分にとってそれはパリじゃないし、ロンドンじゃないし。ロスでもサンフランシスコでもない。ニューヨークってやっぱり特殊な場所だと思う。ブルックリンの住人たちはブルックリン語をしゃべるんだ。ブルックリン訛りね。また、さっき言ってたリバティー・パークがあるジャージー・シティだけど、そこからニューヨークまで電車で15分もかからないのに、ニューヨークに行ったことがないって人もいるんだ。そんなふうに本当にいろんな人たちがいる場所だってことだよね。だから、良い意味であなたと私は違う人間だという認識をきちんと持つことが大切なんだよ。お互いの違いを認めるってことだよね。そうすると相手のことを理解しやすくなるし、いろいろなことがわかりやすくなるんだ。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「2 Boys at Fire Hydrant in Harem」

夏の117丁目、セント・ニコラス・アヴェニュー。
暑さを凌ぐために消火栓を開けて、水を浴び、涼しさを呼ぶ。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Watermelon Umbrella」

チェルシーで開かれていたアンティークのフリーマーケット。
近所だったし、好きだったので毎週買い物に訪れた。

私が感じたニューヨークの
空気のようなものを感じてもらえたらうれしい

今回、写真を展示させてもらうことになったけど、見る方々に私が撮影したときのその場の空気のようなものを感じてもらえたらうれしいな。あまり言葉にして「こう見てください」なんて、照れくさくて言えないよ。私は演奏するときだってスポットライトが自分を煌々と照らすと演奏できないんだ(笑)。ああ見られてるんだと思うと、ムズムズしてしまう。少しでもその時代のニューヨークの空気みたいなものを感じていただけるといいなと思いますね。

コニーアイランド

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Coney Island 1」

ウォーターシュート。ニューヨークでは よくビーチのそばに遊園地がある

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Coney Island 2」

ここはノスタルジックでファンキーで ひなびていて好きだった場所だ。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Coney Island 3」

コニー・アイランドは歴史的な海水浴場。
ボードウォーク、遊園地がある。

〈TERUO NAKAMURA_NEW YORK GROOVE〉
「Coney Island 4」

この近所にシープ・シェッド・ベイという場所がある。
そこから釣船が出ている。夏から秋まで釣り人で賑わう。

※各作品とも共通の価格になりますが、サイズにより価格が異なります。
●大サイズ 84,780円(日本製/額装サイズ:59×83.5㎝)
●中サイズ 46,224円(日本製/額装サイズ:41×54㎝)
●小サイズ 28,620円(日本製/額装サイズ:36.5×28.5㎝)
※作品はご予約販売となります。お届けは会期終了後、約3週間後となります。予めご了承ください。
※詳しくは係員にお問い合わせください。

中村照夫 / Teruo Nakamura

1942年3月1日東京・神田に生まれる。日本大学芸術学部中退後、64年5月に単身ニューヨークへ。レジー・ワークマンに師事し、スティーヴ・グロスマンやレニー・ホワイトをはじめ、若手ミュージシャンたちとの交流を経て、69年ロイ・ヘインズのバンドでプロデビュー。その後、スタンレー・タレンタインのバンドにレギュラー参加するなどベーシストとして腕を磨き、73年に初リーダー・アルバム『ユニコーン』をリリース。また、自己のバンド “ザ・ライジング・サン” を結成し、アルバム制作やライヴ活動を精力的に行い、全米ジャズチャートでトップ10入りし、79年には日本人ジャズマンとして初めてカーネギー・ホールへの出演を果たす。その後もベーシストとしてだけでなく、他のアーティストの作品のプロデュース、92年、『10万人リバティー・ジャズ・フェス』(観客動員数10万人)、94年ユニセフのための『JAL ジャズ・コンサート』(秋吉敏子、菊地雅章、日野皓正などが出演)、2009年『マウントフジ・ミュージック・フェスティバル』など、大規模なコンサートのプロデューサーとしても活躍。14年以上にわたり、エイズ患者救済などを目的にしたコンサートを日米で開催。2009年12月には自身の『Cheetah』レーべルをスタート。写真家として、またラジオ番組のDJなど幅広い活動も展開。